音楽哲学
「音楽は誰のもの?」
今日は、とある現代音楽の即興ピアニストさんと音楽哲学についてお話する機会をいただきました。
音楽は形がない故に、「創り手」と「受け取り手」の感性それぞれに委ねられるものとなります。(音楽そのものに意義を見出すことは非常に難しい)
音楽を長年やっていると、そうして落ち着いて「音楽とは」に向き合う時間が短くなってしまいます。
音楽は「こういうためにあるのだ」という議論は、現代においては非常にナンセンスなものだと私は思っています。語ることに意味はありますが、そこに答えを見出すことはナンセンスだということです。
例えば家電など、私たちが日常で使っているものというのはそのものの意義は明確です。(人によって多少の誤差はあります)
しかし音楽はどうでしょうか?特に現代においては、それこそ定義することが難しいのです。
ある人にとっては「勇気のでるもの」
ある人にとっては「生活の一部」
ある人にとっては「雑音」
など、本当に様々なのです。

「音楽は不要不急ではない」といったような議論も最近はみられますが、それはそもそも不要不急という定義すら明確ではないのに(人によるもの)更にそこに音楽というとてつもなく広い定義のものが入ってくれば、結論は出すことはできません。強いて言うなら「不要不急かは人による」というところでしょうか。
私は、音楽というものがどんどん「今」との距離が出ていると感じています。(ピアニストの方は孤立しているという表現をされていました)
それは、生活が豊かになったが故かもしれませんし、イヤホンなどの普及により音楽を「一人で聴く」ということが日常になったからかもしれませんし、反対に身近になったからかもしれません。その理由は探せば無数に出てくるでしょう。
ただ、私は音楽を生み出す者として「音楽とは」という定義を明確にもっておくべきだと思っています。
それがなく、ただただ「やりたいからやる」では、自身の技術は向上したとして「音楽を誰かのものにする」ことはできないのです。
音楽が誰のものか?
この問いは、例えば物理学的に「そこにいる人たちの耳や皮膚を通って脳に信号として送られている」という観点でみれば「そこにいる全ての人のもの」という答えになるかもしれません。(これはあくまで一例です)
でも、それは誰にも絶対的な答えというものは出せないのです。
それでも音を紡ぐ人間としては、常に考えていくべきことである・・・と私は感じています。
それが信念と呼ばれるものになるのかもしれませんね。
今日は、そんな事をたくさんお話することができて、改めて自分にとっての音楽というものを見つめる時間となりました。
音楽は誰のもの?

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